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ピンチにおびえないこと

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菊芋です。



十年ほど前に、上海に雑誌の取材で行ったときのことです。

タクシーが宿泊するホテルにつき、編集者やカメラマンの仕事に必要な大量の荷物を下ろし終わったあとで、
自分の小さなバッグだけそこにないことに気付きました。

以下はそのときのことを当時書いたもの。
のちに「マインドフルネス」と呼ばれるようになったヴィパッサナー(瞑想)に出会って十年が過ぎたころでした。
長いですが、よかったら。

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「タクシーの中ですかね?」編集者が目を丸くして言った。
門に目をむけると、乗っていたタクシーがいままさに門を抜けていくところだった。
「わからない」
答えながらその失われたバッグのなかに、パスポートも財布も入っていることを考えていた。
日本と違ってレシートには、タクシー会社の連絡先が印刷されていない。
追跡は不可能。
最初に考えたのは、
1、パスポートの再発行までにかかる期日が出発日までに間に合うかどうかを確認すること、
2、クレジットカード会社に利用を止めるよう連絡すること

でもまずはチェックインを済ませよう。
チェックイン後に、タクシーに乗った場所にひとりでタクシーに乗って行ってみよう。
いま、私できることはひとつしかない。
ホテルのレセプションでチェックインを待つ人びとの列に並んでいる間も、
ひとりでタクシーに乗って上海の街を走っている間も
「今の自分の頭にあること、心を占拠していること」を見続けること。

今、心にあるのは、「不安」。不安の元にあるのは「恐怖」。その下にあるのは「欲」。
なくしかけているものを数えあげ、恐れるのは、計算と欲があるからだ。

欲、欲、欲、と心の中で念じた。ラベリングした。
すぐに、気分が変わった。
現時点で私が怖がることはなにもない、まだ何も起こっていない、という気持ちが波紋のように心に広がっていった。

最初の驚きは、衝撃のように身体に痛みを投げかけていたのだが、それがそのとき完全になくなった。
今の私の状況は、「最悪」と名づけられるものではない。
クレジットカードによって損害をこうむることは、ただの「欲」の範疇のこと。
決めた。
自分のなかの葛藤に火をつけない。葛藤に油を注がない。

それでも、ふと気を緩めると、さまざまに想像したい気持ちが頭をもたげる。
もたげているそれは、不安に身を任せたい欲だ。すかさず見る。それを見る。
出るわ出るわ、欲と不安。
もぐら叩きのゲームのように、出てくる感情を見る、見る、見る・・・
これをし続けた。

一人でタクシーに乗った場所に戻ってみたが、私のバッグはなかった。
ホテルに戻るや、フロントデスクに向かい、神妙そうに聞いてくれたスタッフに、何かあったら連絡をくれるように頼み、私の部屋番号を控えてもらった。

取材スタッフの皆が待つダイニングへ行き、昼の食事をはじめたが、
食事の最中も、ときどき思い出したように不安が心に浮上した。
食べながら、人の話に微笑みながら、私は続けた。
心に不安の気配を感じたら、すぐにその不安を見る。
それを何度も何度も繰り返していた。
すると、いつしか、根拠もないのに
「だいじょうぶ、わたしは今この瞬間にいればいい。心配しなくていい」
いう気持ちが太く、強く私の心をしめているのに気づいた。
クレジットカードを止めるのを急がないと決めた。
スタッフは皆、急いでそれをすることを私に勧めたけれど。

発覚から約3時間たって、編集者の携帯電話がなった。
タクシーの運転手がホテルのフロントにバッグを届けに来てくれたことを知らせるフロントからの電話だった。
こみ上げる安堵のなかで、私の心は不思議と平静で、小躍りして喜ぶような気持ちにはなっていなかった。

瞑想をはじめる前の私だったら、こんな事態に遭遇したら身も心も不安に打ち負かされただろう。
目を吊り上げてすぐにクレジットカードを止め、領事館に電話しただろう。
落ち着くこと。盗まれても、それは最悪じゃない、と覚悟することができたのは、瞑想のおかげだ。
瞑想は、座って目をつぶるという意味ではない。今、自分の中にあるものを見続けることだ。
自分の中をみれば、困っている私の中には、不安も、欲も、怒りもある。
それはたいそうなことのような顔をしているが、実態のない幻想だ。

幻想を相手にして、心のエネルギーを消耗する必要はない。
辛い感情が心を締め付ける瞬間は、生きていれば、いくらでも起こる。
いつも最初は、ドーンという衝撃がくる。
瞬間的に、そのいやな現実を受け入れたくなんかないという抵抗が、心にわきあがる。
受け入れられない心が「緊急パニックボタン」に指を伸ばそうとする。
さああわてろ、さあいきどおれ、さあ絶望しろ、お前にはそうする権利があるんだ
とばかりに心が「仁王立ち」しかける……。
この瞬間、自分の内側を見る。
心臓のあたりが圧迫されているような感じが自覚されたなら、それを「感じ」「感じ」とラベリングする。
呼吸が浅くなって苦しいなら、「苦しみ」「苦しみ」とラベリングする。
頭が空白になるほどのショックを受けているなら、「驚いている」または「驚き」。

そんな余裕がないときだって、事件に圧倒されている肉体の感覚を「感じ」「感じ」とラベリングすることはできた。
そうしたサティがどうにかできると、心が少し落ち着く。
陥ってしまったとんでもない状況への怒りがあるなら、「怒り」「怒り」。
倒れこみ突っ伏したいという欲望があるなら「欲」「欲」。
サティなんかしたくない、私はいま痛烈にショックなのだ! 
との思いがわきあがるなら、そこには「そんなことしたくない」という願望と怒りがあるのだから、
それを見て「欲」「怒り」と念じる。

そのように自分の感情としらみつぶしに向き合っていくと、荒れ狂っていた心が元の秩序を取り戻していくのがわかる。
不思議なことに、気分を持ち直すのに時間はかからない。
気持ちが少し落ち着いたら、情報の不足を補いたくて、推量したい気持ちがわきあがるが、
推量したい欲望を「欲」と見ると、走り出そうとしていた心が止まる。
情報量は変わらなくても、最初よりは必ず楽になる。

ここまできたら、何をいまするべきかを考えることができる。
するべきことがあるなら、それに着手する。
何もないなら何もしない。

自分の気持ちを見続ける。
サティする。
サティさえできれば、心配することも、悪い予想をたてることもできないから、それ以上心を痛めることができない。
むだにエネルギーを浪費できない。
ネガティブなエネルギーに飲み込まれさえしなければ、多くの場合、状況は悪くならない。
なんとか状況を好転させたいという燃えるような欲や執着を手放し、
「最悪が起こっても、私は何も損なわれない」
と気付くことができたら、たいていの恐ろしいものは、
「そういうこともありましたかね」レベルのことになってしまう。

習慣と癖がつくった自動的な情動の流れがはじまろうとしている、と気づいたらそれを見ればいい。
感情に押し流されて、パニックに打ち震えるのは、ただの癖に過ぎない
そうとわかれば、わかった瞬間、流れが変わる。



★★夫から「きみが感情的にならないのが腹立たしい」的なことをいわれます。
感情的にならないわけじゃないけど、あまりそれでどうこうしなくなったかな
それはこういうプロセスをする習慣をつけてしまったせいか?
最近はしませんけど




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