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26年目のセカチュー

このタイトルの本、映画、ドラマが流行ったときは、まったく興味がもてなかった。
白血病にかかった美少女が死ぬドラマが涙を誘うのは当たり前でしょう。
そういうのずるいんじゃないですか、と考えるタチなんです。

2004年、綾瀬はるかが普通の女優から人気女優に脱皮するきっかけになったドラマが「世界の中心で愛を叫ぶ」というドラマだったそう。
いまやアマゾンプライムでテレビドラマが無料視聴できる時代なもんですから、見てしまいました。
筋肉のしっかりした陸上選手の高校生が瀕死の姿になっていくプロセスが綾瀬はるかのかれんさとともにみごとに表現されていて、脚本も演出も演技陣も一流ぞろい。一度見始めたらとめるのが難しい。二日かけて全話視聴しました。

がんで死んでいくむすめっこのドラマなんか今見なくてもいいじゃん
と自分でときどき突っ込みをいれていましたが、見てよかった。
何がよかったかというと、わたしはついている、という実感を得ました。

何がついてるって高校1年生で発病して1年で死んでしまうというのは、実に悲しい。
自分をかえりみると、もう50年も生きている。ついてるな。
恵まれていることだなあと改めて思いました。

1950年なら50歳が平均寿命。もう十分に生きたでしょう、といわれたであろう年齢です。
最近は80歳でも90歳でもまだまだもっと生き続ける希望に満ちているので、50歳で十分ですなんていうと、なんと後ろ向きな、と叱られるかもしれません。
しかしやっぱりいってもいいでしょう。もう、54年も生きたと。

主人公と同じく私も絵本の編集者になりたいとその現実化をまじめに考える高校生でした。
恥ずかしいので人に話したことはほぼありませんが、高校生にして入りたい出版社も決まっていて、ふたつの出版社にはがきをだして入社条件を質問しました。
17歳で死ななかったおかげで、高校生のときの夢は半分以上かない(絵本編集者への道はあきらめたけど)
高校生の私が夢見た以上に編集の仕事は楽しくて、主人公が夢見たように仕事で世界各地を訪れることができた。

そしていくつか楽しいれんあいをへてこれ以上願いようのないオットを得られた。

テレビドラマ「セカチュー」をみて得た感想の最たるものが
自分はなんて恵まれているのだろうなあ、というのは普通かどうかわかりませんが、
このドラマをみた多くの人がちらりとは思うのではないかな。
人生に倦んでいる人は見てみるといいかもしれません。

私の場合、主人公の恋人が死んでいくシーンなんか見ると、「がん=死」の概念が刷り込まれてしまうかしらと懸念もしながらドラマが進んでいくのを見てましたが、まあ、結論はそのとおりでした(笑)。
映画バージョンは見るのをやめときましょう、と思います。

とはいうものの、死をネガティブなものにとらえることの極端までいっているこのドラマは、ネガティブのさいはてまでいって反転し、死のポジティブな側面をみるものに伝えてくれるのでした。

原作は読んでないのですが、映画も見てないのですが、セカチューのおもしろさの肝はここにあるのかもしれません。

死はとても普遍的で、つねにずっとあるものなのです。
死んだ人の記憶を周囲の人はのみこんで、体のなかに溶け込ませて、その先の日々を生きていくわけです。
なにも特別なことではなく、毎日すこしずつ死んだ人の記憶が薄れていき、そのうち思い出すことがまれになった、と気付く。


死を特別なものだと扱いすぎて、人生がこんがらがってしまった主人公。
恋人が死んだあと17年も、自分が生きたがっていることに気づかないというのは・・・・。
これは男女の違いなんでしょうか。
彼のような男は、その父親が指摘するとおり、ちょっとズルいなあと思いました。
セカチューの熱狂的なファンはたぶんほとんど男でしょうね。


飛行機が太平洋の上空で乱気流に巻き込まれたとき、大揺れが始まった瞬間に、両手のひらがしっかりとひじあてをつかむのを見て、「こいつは死にたくないらしい」と自分に思ったことがあります。

車がきてないか左右をしっかり確かめて道路を渡るとき、おなかがすいたらごはんを食べるとき、キュウリをきるとき包丁を乱暴に扱わない自分の手をみるとき、死にたくないという意思が発動して体を大事にいたわっているのがわかります。


死にたくないのか、死にたいのか、その意思は自覚されていないけれど一瞬一瞬の体の動きを通して発動されている。
死にたくないならちゃんと生きればよろしい。
死にたいなら死んでもよいという生き方をすればよろしい。


たとえば昔、女ともだちで自殺未遂の常習者がいたのですが、「死んでもいいと思っているんならカンボジアとか(当時は危険な国だった)いって、孤児をお世話するとかのボランティアしてきたら」と言ったことがありました。
言うまでもない話ですが死にたいと口に出し、ハンパ自殺行為を繰り返す人の多くは、ものすごく生きたいと思っている人なので、この提案は、よくわからない理由で却下されました。


セカチューで主人公の恋人は、高校生で死ななくてはならない身の上をゆっくり受け入れていきます。
この受け入れは、やすらかな死を迎えるために不可欠なものだと思います。

考えてみると映画やドラマでがんが扱われるときに、代替医療にすがっている人の姿はまず描かれません。
みなさん、標準治療を受けています。

標準治療だと、医療の限界が示されるので、患者はいのちの限界を受け入れざるをえないのです。

代替医療だと希望をつなぎ続けることができます。死にかけても、最後に息を吹き返し、がんを消滅させたストーリーも少なからずありますから。

代替医療に希望をつなぎ続けていると、最後の最後に奇跡が起こるストーリーが期待されているので、いつまでも受け入れ態勢に入ることができません。

死を受け入れざるをえないと気づくのは、代替療法で奇跡を起こせなかった自分の敗北を認めるときになります。

人生の最後の最後に、「私はできなかった」と思いながら「わたしは劣っている」「わたしは失敗した」「わたしは結局いつもこうだった」なんて思いながら、死の床にいることになるわけです。


奇跡のストーリーが自分にも起こると希望をつなぎ、死を受け入れていない末期がん患者の姿というのは、たぶん、がんでない人からみると、見苦しいものであろうかとおもいます。

がんでない人からみれば、末期がん患者には、死を受け入れて恬淡としていて欲しいのです。

がんというドラマを、鑑賞にたえるものにするのに必要な一要素が、「死を受け入れて死んでいく患者」です。
代替医療を選んだといううわさされる有名人に対して、非難が浴びせられるのがずっと不思議でした。
人の選択をどうして非難できるのかなあと。

ひょっとすると、死にいく自分を受け入れていない、そのジタバタさ加減が、がんに関係ない人には気持ちを落ち着かなくさせるのではないかと、疑っております。


それを裏付けるわけではないですが、

キキキリンの死後の、「彼女は死を受け入れて生きた」というストーリーに対する激烈な支持。
そんなに「死を受け入れる」ことは美談なのか、と思わせるほどです。


代替医療によってがんを治そうとする人たちの集まりをネットで見る機会は、なかなかないと思いますが、
そこにあふれているのは、

「死んでもいい」なんて思ったら負け!
「ぜったいに生きる」と思わなくちゃ!

という論調です。

私はそれにも疲れます。
だって人間毎日死に向かってすこしずつ前進しているのに。
そんな生命の自然に反することを望むのは難しいです。

奇跡のようにがんが消えてしまうことは、代替医療だけでなく、標準医療の世界にも存在します。
勤務医の忙しさで論文発表をしないだけで、おったまげーなことを経験したことのある医師は少なくないらしいです。

それでも
「奇跡なんかないですよ~」と口にするのが医者のふつう。
「奇跡はいつでも起こりえる」と口にするのが代替医療の世界。
どちらが患者にとってプラスなのか。

病気になる前は、ポジティブなことだけ頭にいれていればいいんだ!と思っていましたが、
そんな単純なものじゃないんです。
代替医療だけで完治するのはものすごく少数。完治どころか悪化していくのが大多数。

代替医療の指導者たちは、
結果が得られないかれらに対してこういいます。
思い方が足りなかったとか、考え方の根本がまちがっとるとか、もっと私の話を聞いてわが身をふりかえりなさいとか。
意見はいろいろありますが、どの患者さんもすさまじくがんばっています。
(代替医療で治そうとするあちこちのグループに所属しています)

代替医療のみに運命をかけると、死生観に大きな影響がもたらされます。
お金で希望が買えるなら、と代替医療にのぞみをつなぐ人を標的にしたビジネスがちまたにあふれています。
代替医療を売る人たちに、死生観を販売している自覚はないでしょうが。

「奇跡的治癒なんて自分には起こらないから私は標準治療以外考えられなかった」
といった友人がいました。
賢い人だなあと思いました。
私を含む賢くない多くの人は、自分には奇跡が起こるんじゃないか、とこっそり思っています。
病院の標準治療を避ける人の何割かは、奇跡が起こるのを邪魔するから、または奇跡が起こったときにストーリーがつまんなくなってしまうから病院治療を受けないと思っています。



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